現在夏季オリンピックが開催されているパリは、世界で初めて「映画上映」がなされた地です。今回のニューズレターでは「映画とパリ」をテーマに、パリの映画文化を紹介していきたいと思います。
1895年12月28日、パリの「グラン・カフェ」にある「インドの間」で世界初の商業的なシネマトグラフ上映がおこなわれました。シネマグラフとは映画(シネマ)の原型となった装置で、発明したのはフランス・リヨン出身のリュミエール兄弟(オーギュスト・リュミエールとルイ・リュミエール)です。上映初日には、『工場の出口』や『赤ん坊の食事』などリュミエール兄弟が制作した10本の作品が上映されました。会場となった「グラン・カフェ」は社交を目的とした「ジョッキークラブ」本部の建物にあり、その後もたびたび上映会がおこなわれていました。オリンピックの開会式でも映し出された『ラ・シオタ駅への到着』には、こちらに向かって走ってくる列車を目にした観客が思わず逃げてしまったという逸話も残されています。「動く映像」は当時の人々にとってそれほど衝撃的なものだったのです。開会式の映像では、この逸話にオマージュを捧げるかのように列車がスクリーンを突き破って飛び出してきていました。
「グラン・カフェ」の跡地(「ホテル・スクリブ」の地下1階)に飾られているリュミエール兄弟の写真(左:オーギュスト/右:ルイ)
さて、リュミエールによる上映会をきっかけとして映画監督になったのがジョルジュ・メリエスです。その頃メリエスはマジックショーをおこなう劇場を運営をしていましたが、リュミエールのシネマトグラフを目にしてすぐさま映画の世界に飛び込みます。メリエスはさっそく「スター・フィルム社」を立ち上げ、パリ郊外に世界初となる映画スタジオを建設しました。奇術師の経験を生かして生み出された数々のトリック撮影は、まさに映画が「魔法」のようなメディウムであることを証明したといえます。そんな映画の奇術師メリエスによる代表作が、1902年に製作された『月世界旅行』です。人間の顔をした月面に宇宙船が突き刺さる場面はオリンピックの開会式でも効果的に使用されていました。その後にみられたのは50年代以降に活躍する映像作家クリス・マルケルによる名作『ラ・ジュテ』(1962)へのオマージュですが、ここではその名を言及するにとどめておきます(マルケルの長編1作目はヘルシンキオリンピックの記録映像『Olympia 52』(1952)でした)。
書籍『魔術師メリエス』(フィルムアート社、1994年)とメリエス生誕110年記念上映のフライヤー
リュミエールによるシネマトグラフの衝撃からものの数年で映画技術は大きな発展を遂げたわけですが、1890年代にはゴーモン社とパテ社という今なお存在する大手映画会社ができていたことにも注目するべきでしょう。瞬く間に映画産業が発達し、当時パリには世界最大級の映画スタジオと映画館がありました。したがって映画の誕生から第一次世界大戦が始まるまで、製作面でも興業面でもフランスは世界最大の映画大国であり、パリはその中心地だったのです。なお、オリンピックの開催にあたりセーヌ川沿いにはフランスの歴史を作った10人の女性の銅像が立てられ、その様子は開会式でも紹介されていました。そのうちの一人、アリス・ギィは映画の創成期にゴーモン社で活躍した映画監督です。
『映画はアリスから始まった』(2018)と「アリス・ギィ監督短編集」特別上映のフライヤー
このような背景を考えると、映画大国フランスが早くから映画を継承すべき文化として捉え、資料の保存に力を入れてきたことにも納得がいきます。映画資料を保存するという認識を浸透させるには時間を要するものですが、フランス・パリでは1936年に、映画の蒐集・保存・公開に生涯を捧げたアンリ・ラングロワと、のちの映画監督ジョルジュ・フランジュがシネマテーク・フランセーズという映画アーカイブを誕生させます。この頃のフランスは、第一次世界大戦に影響を受けた映画産業を見事に立て直し、自然主義を特徴とする「フランス派」映画を確立していました。映画会社の倒産や製作本数の激減がみられた暗黒時代を抜け出し、ルネ・クレール『巴里の屋根の下』(1930)やジュリアン・デュヴィヴィエ『舞踏会の手帖』(1937)、マルセル・カルネ『霧の波止場』(1938)など国内外で高く評価される作品を生み出した30年代は、まさにフランス映画の黄金期と呼ばれています。しかしラングロワの優れていたところは、映画監督フランソワ・トリュフォーの言葉を借りれば、「選択や選考を拒否してきた」姿勢です。好みや流行で保存する資料を選別するのではなく、どんな映画資料も救われるべきだという判断があったからこそ、今なお私たちは映画について振り返り、必要な資料を検討することができるのです。ちなみにシネマテークは今や立派な建物ですが、設立当初は老人ホーム内の公園にある古びた建物でフィルムを保管していました。その建物を紹介した人物の名前はジョルジュ・メリエス。彼はすでに引退してその老人ホームに入居していたのです。シネマテーク側が建物を買い取ったあと、鍵はメリエスに託されました。映画の奇術師メリエスは、かくしてシネマテーク最初の映画の「番人」となったのです。それもあってメリエス生誕160年にあたる2021年には、シネマテークの常設展が「メリエス美術館」としてリニューアルオープンされ、300点にのぼる関連資料が展示されています。
左:シネマテーク・フランセーズ。写真左上にあるのが「メリエス美術館」の看板/右:モンパルナス墓地にあるラングロワのお墓
このようにフランス映画史のごく一部を振り返ってみるだけでも、パリと映画が強く結びついていることがわかります。そしてその結びつきは、生活に根付いた形で街のいたるところに現れていると言ってもいいかもしれません。例えば筆者の住んでいたアパルトマンの近くには、「ジャック・ドゥミ広場」があり、毎週火曜日と金曜日にはマルシェ(朝市)が開かれていました。また、その近くの壁に、アニエス・ヴァルダとその作品が描かれた壁画がある日突然出現したこともあります。そこはパリ14区、映画監督アニエス・ヴァルダとジャック・ドゥミの夫妻が暮らした場所で、二人の家もすぐ近くにありました。
左:ジャック・ドゥミ広場。ちょうどマルシェが開かれていた日/右:ヴァルダに関する壁画(2020年8月撮影)
また、5分ほど歩いたところにはフランソワ・トリュフォーの作品からとった「緑色の部屋」という名の本屋があり、トリュフォー研究をしている身としては思わず歓声をあげたこともあります。
左:『緑色の部屋』(1978)のフライヤー/右:本屋「緑色の部屋」
「映画とパリ」。当然このコラムには収まりきらない壮大なテーマですが、京都にいても連日耳にする「パリ」という言葉に触発されて、簡単に振り返ってみました。
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リュミエールに関する書籍
雑誌『映画芸術』。その他『キネマ旬報』や『シナリオ』、『映画評論』等複数の雑誌を所蔵しています。
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(原田麻衣)