【追悼】映画監督 舛田利雄さん

【追悼】 映画監督 舛田利雄さん

映画監督の舛田利雄さんが8月26日に老衰で亡くなりました。98歳でした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

昭和2年(1927)兵庫県神戸市で生まれた舛田さんは大阪外国語大学露西亜科を卒業後上京し、新東宝シナリオ塾で脚本を教わります。その後日活に移籍して脚本を手掛け、助監督として市川崑『ビルマの竪琴』(1956)、井上梅次『勝利者』(1957)で演出を学びます。そして昭和33年(1958)自ら脚色した『心と肉体の旅』を映画化して監督デビューします。「念願叶って第一作を与えられました。(中略)いわゆる通俗的なメロドラマとしてではなく、現代に生きる社会性をもったテーマを掘り下げて、大衆に強くアッピールする幅の広い作品にしたいと思っています」(『映画監督 舛田利雄』舛田利雄/佐藤利明/高護)と語ったそうです。

『心と肉体の旅』舛田監督

その後日活の中心的な監督として次々と豪快なアクション映画を作り上げます。その中で石原裕次郎との名コンビが誕生しました。石原慎太郎原作『錆びたナイフ』(1958)、さらに『赤い波止場』(1958)、『闘牛に賭ける男』(1960)、『花と龍』(1962)、『赤いハンカチ』(1964)などアクションシーンのスタイルを確立、社会的ブームとなり裕次郎の人気を広めました。

『昭和のいのち』(1968)舛田監督と浜美枝 石原裕次郎

舛田監督は若手俳優を新たなる企画に引き込みます。石原慎太郎原作で主役は小林旭の『完全なる遊戯』(1958)、大ヒットした曲を坂本九と高橋英樹たちで演じた『上を向いて歩こう』(1962)、石原裕次郎主演作品のリメイクで渡哲也の『嵐を呼ぶ男』(1966)など日活作品の魅力を作り上げました。

『上を向いて歩こう』 高橋英樹、坂本九、舛田監督、渡辺トモコ、浜田光夫

70年代になるとハリウッドの20世紀FOXからその腕を買われ、黒澤明監督の代わりとして深作欣二と『トラ!トラ!トラ!』(1970)の共同監督を務めます。その後は独立プロ(石原プロモーション・シナノ企画)、東宝、松竹、東映と各社で作品を手掛けます。特に東映の『二百三高地』(1980)〈おおさか映画祭監督賞・作品賞受賞〉、『大日本帝国』(1982)、『日本海大海戦 海ゆかば』(1983)、そして東宝の『零戦燃ゆ』(1984)による戦記映画4作品を公開し過去の歴史的悲劇を大作として描きました。

『二百三高地』撮影現場 森繁久彌(伊藤博文)と舛田監督
『大日本帝国』記者会見 舛田監督と丹波哲郎

 

 

 

 

 

 

ここ東映京都撮影所では『社葬』(1989)〈毎日映画コンクール監督賞・ブルーリボン賞監督賞受賞・牧野省三賞受賞〉、『動天』(1991)、『江戸城大乱』(1991)の劇場公開作品だけでなく、テレビドラマの正月時代劇『家光と彦左と一心太助』(1989)、『源義経』(1990)、『戦国最後の勝利者 徳川家康』(1991)など新年に国民を楽しませる作品を世に送ります。特に『徳川家康』(北大路欣也)のオープニングシーンで舛田さんは、監督だけでなく敵対役 “武田信玄” として出演し、まさに武将の表情としてクローズアップされました。

『社葬』撮影現場 緒形拳と舛田監督
牧野省三賞受賞

 

 

 

 

 

 

 

舛田利雄監督の作品は現代劇、時代劇、アクション映画、戦争映画だけでなく、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1977)、アイドル『ハイティーン・ブギ』(1982)、『愛・旅立ち』(1982)、小松左京のSF『首都消失』(1987)などジャンルにこだわらず、新鮮で魅力的な作品を常に考慮していました。監督デビュー時の言葉「大衆に強くアッピールする幅の広い作品にしたい」とはまさに永遠に思い続けた意思ではないでしょうか。撮影現場でも俳優を信頼した演出力で感情を引き込ませ、スタッフの膨大な作業も力強く指導し、若手助監督をも真正面から厳しく励まし育てました。そして撮影が終わったら皆で酒盛りに。多くのキャスト・スタッフから尊敬される日本映画界の親分であり、職人気質の豪快な映画監督でした。

舛田利雄監督作品の撮影台本

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                                    (石川一郎)