【追悼】大森一樹監督

【追悼】大森一樹監督

大森一樹監督が11月12日に亡くなりました。70歳でした。

大森監督の死は映画界全体に大きな衝撃を与えました。東映京都撮影所にも、かつて大森監督とともに仕事をしたスタッフが在籍しています。映画界の偉大な先達であり、また、よき友人でもあった大森監督の訃報に接して、驚きと悲しみが広がりました。

謹んで哀悼の意を表明いたします。

大森監督は、京都府立医科大学医学部在学中に監督した自主制作映画『暗くなるまで待てない!』(1975年)などで注目を集めていました。1977年に新人脚本家の登竜門とされる城戸賞を受賞し、1978年にその脚本を自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビューを果たしました。

その後、自身の経験を活かして医大生の青春を描いた『ヒポクラテスたち』(1980年)や、村上春樹のデビュー作を映画化した『風の歌を聴け』(1981年)などを監督してキャリアを重ねていきます。

80年代中盤には吉川晃司を主演に据えた三部作(『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』『テイク・イット・イージー』)や、斉藤由貴を主演に迎えた三部作(『恋する女たち』『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』)などを手がけたほか、「ゴジラ」シリーズの監督にも抜擢されます。監督・脚本を務めた『ゴジラVSビオランテ』(1989年)は、シリーズ屈指の名作として語り継がれています。

「吉川晃司主演三部作」の台本と大森監督の関連著作。

「斉藤由貴主演三部作」と大森監督の関連著作。

『ゴジラVSビオランテ』(1989年)と『ゴジラVSキングギドラ』(1991年)の台本および80年代の大森監督の写真。

1995年に発生した阪神・淡路大震災の折には、芦屋の自宅マンションで被災し、映画監督として自分にできることを模索します。そうしたなかで生まれたのが『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』(1996年)や『明るくなるまでこの恋を』(1999年)といった作品です。映画図書室スタッフの石川一郎は、この二つと『継承盃』(1992年)の三つの作品の助監督でした。

写真の『明るくなるまでこの恋を』の台本は、助監督を務めた石川が撮影時に使用していたもの。

2005年には大阪芸術大学の教授に就任し、後進の育成に力を尽くされました。
遺作は2015年公開の『ベトナムの風に吹かれて』でした。

映画図書室では大森一樹作品の台本や、大森監督の著作などを多数所蔵しています。
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(伊藤弘了)